ミニマリストとの出会い
「ミニマリスト」
どこで初めてこの言葉を聞いたのか、もはや覚えていないが、ミニマリスト的なものに興味を持ち始めたのは、こんまりさんの「人生がときめく片づけの魔法」を読んだのが始まりかと思う。
「ときめくかどうかでそのものが必要かどうかを判断する」
そんな抽象的で、フォースのような判断ができるのか、と思いながらも、やってみるとなるほどって思った。
抽象的だけども、そもそも答えがあるものではなくて、自分の感覚が答えなのだから、その判断方法で良いんでしょう。
とにかくものを捨てようとした
そこから、「ミニマリスト」、「断捨離」にすごく興味が湧いて、いろいろな本を読み漁った。
そして、「ものが少なくなる=頭もすっきりする」、「片付ける=過去に片をつける」というような考えのもと、可能なかぎり身を軽くして、次のステージに進めるようにしたいと躍起になった。
幾分ものは減った。
が、以前心はすっきりしていない。
これはなんだろうか・・・
まだまだものを減らすべきなんだろうか。確かにミニマリストと言えるほどものを減らせたわけでもなかった。
もっと捨てるべきか?
しかし実際は「あれはどこ行ったっけ?・・・捨てたのか・・・」と必要なものや大事だったものも捨ててしまったりして、寂しい思い、後悔もした。
逆に「なぜ捨てられないのか」と苛立つ事もあった。捨てたいけれども、もったいなくて捨てられなかったり。
そしていつしか、いかに最小限で過ごせるか、無駄なく過ごせるか、が目的となり、節約生活のような肩身の狭い生き方になりつつあった。
捨てる事が目的ではなくて、何を周りに置いておきたいのか
いつしか捨てる事が目的になりつつあった。
節約、無駄のない最小限を目指す事がミッションになってしまっていた。
そうなると、気持ちは萎縮し、欲しいと思ったものがあっても、「同じ役割のものは持ってるのでいらない」と突っぱね、本当に必要なものだけを買い足したり、壊れた時にのみ買い替えたりするようになった。
でもこれってすごく窮屈だった。
節約がしたかったんだっけ?
最小限で暮らす事が目的なんだっけ?
いや違う。
自分の身の回りにあれば、毎日が楽しくなるもの、必要不可欠なものだけを残して、他を捨てれば良い。
捨てるものを探すんじゃなくて、残したいものを選んでいくべきなのだと、最近改めて感じた。
同じ時間を過ごすなら、より自分にとって良いもので過ごしたほうが良い
抑圧の反動で、たくさん買い物をしてみた。
靴、コート、ジャケット、ズボンやら身の回りのものを中心に、本当に良いと思ったものを買ってみた。
結果、また無駄なものが増えてしまった、と感じたものもなかったわけではない。
でも、
「この靴、かっこいいなぁ」
と思いながら会社に通勤すると、歩くだけで楽しく感じた。
ちょくちょく足元を見ては、「やっぱりかっこいいなぁ」と感じる。
カメラも新しくミラーレスを購入した。
いままでキヤノンを使っていたのに、FUJIFILMのカメラを買った。
これってレンズも併用できないし、なんならセンサーサイズも同じものだったので、ミニマルを追求するなら本当にもったいない選択。
でも、実際すごくよかった。
写真を撮って、「良い写真が撮れた」「本当に綺麗だ」と感じられる。
「かっこいいカメラやなぁ」と見て感じる。
こういうことなんじゃないかなって思う。
そして最近もう一歩先を考える。
人生有限で、例えば同じ時間写真を撮るなら、より自分にとって「良い」と思えるカメラを使ったほうが良い。
より履いていて気持ちいい、かっこいいと思える靴を履いたほうがいい。
音楽お聴くなら、より良い音で聴いたほうが良い。
かける時間は一緒。
その質を上げるのはその物と自分との相性。
もちろんお金がないと叶わないこともある。
でもこれがお金を稼いで良いものを手に入れる理由だし、お金がないなら、自分が買えるかぎりで良いものを買うしかないだろう。
結局時間が一番大事で、その時間を有意義にするために物があるんじゃないか。
それを選ぶ権利を得るために、より多くのお金を稼ぎたいんじゃないか。
質の高い人生を送るために、自分にあった質の高い仲間(物)を集める
物は自分のためにあるんであって、物に時間を奪われてはいけない。
自分の人生を豊かにするために、自分の周りには自分に合った最善のものを置く。
最近ものを買う時には、
「こいつは自分の仲間に加えるべき物だろうか」と考えるようにしている。
本当に自分が最高と思える仲間だけに囲まれて生活ができるようになれば、人生とても充実すると思う。
まだまだ未熟で、いらないものにも囲まれ、身動き取れなくなることも多々あるが、そんな気持ちで今はミニマル化に取り組んでいきたいと思う。